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加藤直樹さんへのインタビュー

解放新聞兵庫版9月号に掲載した、「九月、東京の路上で」の著者・加藤直樹さんへのインタビュー。
紙面の都合で載せられなかった内容を含めてお届けします。




(インタビュー:2015年6月16日)

―ブログ発信から始まり「九月、東京の路上で」の執筆に至った動機と経緯について教えてください。

    

ブログ「9月、東京の路上で」は2013年9月限定で更新しました。在特会(在日特権を許さない市民の会)が新大久保でヘイトスピーチを頻繁におこなっていて、その様子を2012年の秋にYoutubeで見て、ものすごく怒りが湧いたことがもともとのきっかけです。僕は新大久保で生まれ育っていて、在日の子がクラスにいるのは普通でした。だからいろんな人がいる自分の故郷で、「日本人はいいけど、朝鮮人は出ていけ」って言っているのが本当に頭にきて。どうやったらあれを止めさせられるか悩んでいた頃、2013年の2月に「(レイシスト)しばき隊」という人たちが動き出しました。それで僕も「ここで参加しよう」と思って活動しはじめて、友人たちと「知らせ隊」を作りました。知らせ隊で力を入れていたことは、「差別デモが通過中」とか「差別デモに抗議しています」というプラカードやビラを使って、見ている人たちに今何が起きているかを知らせること。在特会と抗議する人がもめている状況は、外から見たら何が起きてるか分からないから。だんだんカウンターの人数が増えていって、ヘイトスピーチやレイシズムを問題視する動きが始まって、デモが大久保から撤退するとき、これからの活動で「何を知らせるべきなのか」友人たちと話し合いました。2013年は関東大震災から90年で、もともとこの問題に関心があった僕は、在特会に抗議する人たちの側から、関東大震災とつなげて考える声があがらなかったことが気になっていました。ヘイトスピーチが横行する事態には歴史的な起源があると示す意味でも、関東大震災を思い出してもらう、知ってもらうということをやることになりました。それで思いついたのがブログ。90年前の今を中継するしくみにして、ブログの記事には当時の写真ではなく、虐殺が起きた現場の現在の写真を載せました。当時の白黒の兵隊の写真だと「これは昔のこと」というメッセージになってしまうので。そのブログをツイッターにリンクさせたら、思いを書き込みながら拡散してくれる人が出てきて、ブログのアクセスは終了時点で5万くらいありました。

    

―資料に目を通す中で、つらかったことや怖かったことがあれば教えてください。

    

一番参ったのは(虐殺を目撃した)子どもの作文です。子どもたちの文章からは、起きていることがひどいことだと伝わってきません。「首が転がっていました」とか「つついたら死んでしまいました」とか。子どもの作文に、「お父さんは人を殺しに行きました」とか出てくることをどう受け止めたらいいのか、何とも言えない嫌な思いになり、本当にショックでした。
これには2つの解釈があると思っています。子どもは文章で自分の想いとかを書くのは苦手じゃないですか。だいたいは出来事をずらずら書いて終わる。だから、この子たちが目の前の殺人を「ひどい」と思ってなかったとは言い切れないんじゃないか。少なくとも「思ってない」と言い切ってはいけないんじゃないか、という思いが一方にあります。もうひとつは実際に書いてあるとおりで、いったん「この人たちは人間じゃないから殺してもよい」と思えば平気で殺せるし、殺しているのを眺めることができるんじゃないかということです。

    

―抗議活動への参加やブログ発信もそうですが、加藤さんがヘイトスピーチに立ち向かうときに、単純に「怖い」と感じたことはありますか。

    

ヘイトスピーチのデモを現場で目撃すると、差別されている当事者はもちろん、そうでない人であってもショックを受けます。泣いてしまう人もいます。僕の場合は、抗議活動に参加したのは大久保が初めてだったんですが、それまでにも攻撃される側になったことは何度かありました。例えば慰安婦の写真展に行くと、2013年までは在特会はとにかくやりたい放題で、会場を取り囲んで出てくる人を吊し上げたり。市民運動も攻撃して、ものを投げてきたり殴ってきたり。そういうのを見ていたので、逆に言うとどこか自分の感覚を麻痺させていたんだと思います。安全だと思って家に帰ってきて台所にトラがいたらそれこそトラウマになるけど、「ここはジャングルだ」と思ってトラがいたら、そんなにトラウマにはならないじゃないですか。そういう意味では、抗議活動に参加したときはすでに、「在特会はそういう連中である」って構えていたから、あまりショックを受けなかったです。いい悪いではなく、そういう感じでした。それでもやっぱり、抗議した翌日には「参ってるなぁ」と思うこともあります。
「知らせ隊」での活動で、プラカードを持って立っていたことは先ほど話しましたが、この活動の最初の目的は「知らせる」ためだったんですけど、やってみて気づいたのは、「クッションになる」ということでした。差別デモをおこなう連中は沿道やお店にいる人たちを罵倒します。日の丸や旭日旗を掲げた見知らぬ人に「お前ら売国奴だ」って罵倒されるのは、単にアイドルグッズを買いに来ている人にとっては相当ショックだと思います。ところが「差別デモが通過中です」というプラカードを持ってぼくらが立っていると、その後ろから彼らが罵倒していても、お店に出入りする人たちは、まるで珍しい動物が通るかのような顔でそれを見る。つまり、直接には心に入ってこなくなるんですね。メンタルなクッションを提供できたのかなと現場で気づきました。あとはお店の人に、こういう状況でこう抗議しているんだということを韓国語で書いたビラを配るだけでも、ショックの度合いはやわらぐなぁとその時思いました。

    

―著書の中で、地元住民との日常関係が成立していた朝鮮人についての記述がありました。資料をご覧になられた中で、そういう記述は多かったのでしょうか。また、他に印象的な話などがあれば教えてください。

    

当初、この本のサブタイトルを「隣人殺しの残響」という感じで考えていたんですね。しかし、ある人に相談をしたら、「当時、朝鮮人と日本人が隣人としての関係を結んでいた例は少ないんじゃないか」という指摘を受けました。1923年にいた朝鮮人は、日本に来て2~3年の、今でいう外国人労働者みたいな感じです。留学生は別ですが、工事現場で働いている人が多くて、転々としていた。統計的に見ても、日本人と隣人関係を持っていた朝鮮人というのは少ないと思います。日本社会にそんなに深く根ざしているわけではなかった。だけど、実際に証言を読んでいると、日本人と一緒にいる様子が見えることがすごく多かったです。雇い主や同僚、友だちとか、この社会にいる以上当然の日本人との関係。定着の度合いは違っても、日本人と無縁に彼らがいるわけではないということが見えてきたんです。ものごとの真実の問題としては、彼らは日本社会で、日本人と関係を結んで生きていた。そう思ったら、虐殺の意味が違った形で見えてきました。僕はかつて、「関東大震災時の虐殺」を、「日本人」という漠然とした集団がいて、「朝鮮人」という漠然とした集団を殺したという感じでとらえていた。だけど、あの事件で、名前を持った朝鮮人、例えばキムさんという人が、山田さんという同僚と働いていて、山田さんの友だちであるキムさんが殺されて、山田さんとキムさんの関係が引き裂かれる。そういうことなんだって、資料を読み込んでいくうちに変わったんですね。残っている証言はごく一部で、その残っている記録や証言にも、殺された人たちは無名性におかれている。名前が分かる人の方が圧倒的に少ないんです。だけど、どこそこの路上で朝鮮人一人がこうやって殺されたって記録が残っている。その何十倍も、記録さえ残っていない、頼るところもなく街を逃げ回ったあげく殺されてしまったって人たちがいたんだろうと。そういうことも考えますよね。

    

―あとがきの感謝の言葉の最後に、「そして誰よりも福島先生に」と書かれています。福島先生というのは、小学校3年の時の担任の先生ですよね。友だちが女の子をいじめていた時の先生の話があとがきにあります。

    

「私の友人たちがある女の子を『やーい朝鮮人!』とはやし立てていじめたことがあった。加わらなかった私も、仲間と見なされて担任の先生に呼び出された。図書室に行ってみると、いつも笑顔の優しい福島先生は、本当に発火するのではないかと思うほどの怒りを漂わせて窓の外を眺めていた。私は震え上がった。先生はしかし静かに、絞り出すような声で、彼が戦時中に見た、炭鉱で悲惨な労働を強いられる朝鮮人の姿を語った。当時の私はその内容を十分には理解できなかったが、怒りと悲しみはひしひしと伝わってきた。子どもながらに、民族差別は人として許されないことなのだと知った。今では顔も思い出せないが、あのときの福島先生の燃えるような背中を、私は一生忘れないだろう。」

    

―この時、他に呼び出されていた友だちに、何か変化はあったのでしょうか。その頃のことは覚えていますか。

    

覚えています。他の子たちは何とも思ってませんでしたね。実際に女の子をいじめた子たち4、5人と、加わっていなかった僕も呼ばれた。福島先生は、図書室に一人ひとり呼んで、話をしたわけです。彼らが数分で次々と部屋から出てきて、最後に入ったのが僕。
僕だけ長い間、福島先生の話を聞くことになりました。一人ずつ部屋に呼ばれていったわけですが、他の子たち、実際にいじめていた僕の友だちは、多分「ごめんなさいごめんさない」って平謝りして、先生の話をまともに聞かないで部屋を出てきたと思うんですよ。僕はやっていなかったから「やっていません」って言わなくてはいけないので、逆にそう簡単に帰してもらえない。福島先生は「やっていません」と言う僕に対して長々と語ることになったわけです。僕が福島先生の話を聞いて、意味は分からないままにも心にずしんと感じながら教室に戻ると、いじめの中心にいた友だちがヘラヘラしていて。どういう表現をしたかは覚えていないですが「僕はショックだった」ということを言ったら、彼は「俺は全然平気!謝っちゃえばいいんだよ」と言っていました。彼のその軽さはすごく印象に残りました。彼は実際にやっていたから、あっさりと「ごめんなさい」って言うことで、自分の行為について考えるチャンスを逆に失ったんだと思います。

―出版から1年経過しました。その反響は。

    

関東大震災時の朝鮮人虐殺に興味をもったきっかけは、2000年にあった石原都知事の「三国人」発言(註)でした。その時に「これはどうもおかしい」と思って調べていく中で、災害と流言、災害時のマイノリティーの問題を勉強して、関東大震災のことも詳しく知った。もちろん虐殺の事実自体は知っていたけど、もっと深刻な問題だと知ったときはその時でした。当時、「石原都知事のいる間に東京で地震が起きたらどうする」って、大変なことだって周りに言っていたんですよ。「『三国人』っていう表現が差別的だというだけの話じゃない」って。でも周りの友達は誰もピンときてなかった。ところが2013年になったらみんな理解するようになっていた。それだけ事態が悪化したということですが。ブログの反響は大きかったです。20代から40代くらいの人たちがツイッターで反応してくれていました。「これは90年前のことじゃない。今のことだ」というツイートがすごく印象に残っています。
この本を「怖くて読む気になれない」という在日の人の声も聞きます。そういう言葉を聞くとやっぱり僕の視点は日本人の側の視点で、殺されるかもしれない朝鮮人の側の視点から、あの事件のことを十分に見れてなかったのかもしれないと感じました。90年前のことなので「あのとき私はあそこにいました」って人はいないわけですが、ある集会でおばあさんに「わたしの祖父はあの時鳶で頭をさされました。命はとりとめたけども朝鮮に帰りました」と言われました。あるいは、先週飲み会で初めて会った人と飲んでいたら、「わたしの知っている人のおじさんは、埼玉で朝鮮人をトラックに載せて運んでいたときに群衆に襲われて皆殺しにされた、そのときの運転手だった」という人がいました。これは本庄事件という有名な事件です。すごく「はっ」としました。荻上チキさんのラジオに出たときには、リスナーから「わたしのおばあさんは『荒川で100人くらいの朝鮮人が機関銃で殺されたのを見た』と言っています。戦争中の話とごっちゃになってるんじゃないかと思って疑っていたんですけど、そんなことは本当にあったんでしょうか」っていうハガキがきたり。こういう反応が返ってくるのは、感慨がありましたね。

※註 「三国人」発言…2000年4月9日、石原都知事は陸上自衛隊練馬駐屯地創隊記念式典で、朝
鮮人や台湾人への差別語として使われてきた「三国人」という言葉を使い、「今日の東京をみますと、不法入国した多くの三国人、外国人が非常に凶悪な犯罪を繰り返している。…こういう状況で、すごく大きな災害が起きた時には大きな騒じょう事件すらですね想定される…そういう時に皆さんに出動願って…やはり治安の維持も1つ皆さんの大きな目的として遂行していただきたい」と発言した。

    

―この本で大事にしていることは、関東大震災時の虐殺について「事実を『知る』こと以上に『感じる』こと」と書かれています。

    

僕の中では歴史修正主義のことがありました。歴史修正主義を支持する人たちと、「それはおかしいよ」って言う人たちがいて、そのあいだの人たちは「どうでもいい」と思っている。その「『どうでもいい』と思っている人たち」が心を動かすのは、人間としての自分にとって大事なことであるときです。慰安婦問題で言うと、「女の子が夕方歩いていると、2人の男が現れて『いい仕事があるから来ないか』って言われて、『え、どういうこと?』って思ってる間に連れていかれて、気づいたら何千キロも離れた外国の戦場にいて、男たちがずらっと並んでいる。こういうことってひどいと思わないか」って言ったら、普通の人は「ひどい」と思うと思いますよ。じゃあこの歴史をどうとらえたらいいんだってとこから始まる。
だからこそ歴史修正主義者は、最初に証言を封じる。「この証言に矛盾があるから嘘だ」って。「共感するな」ってことが言いたいから。でも、たとえば関東大震災の虐殺が「今のこととつながっている」と考える人は、そういう議論に乗る気にはならないわけですよね。そこに本質がないことがわかるから。「知る」ことよりも「感じる」ことだっていったのはそういうことです。自分にとって、人間的な価値の問題としてこの問題はどうか、ということから議論が出発していれば、こんなにおかしなことにはならないし、めちゃくちゃな歴史修正主義にもひっかからないと思うんですよね。
実際、過去の例を見ても、アメリカで奴隷解放運動のさきがけになった「アンクル・トムの小屋」は、奴隷にさせられている人がどういう人たちで、その人たちと私たちの関係がどう歪んでしまうのかを、小説として当時の人々の心に感じさせた。また、アメリカで「ルーツ」というドラマが1970年代にありました。黒人のある家系の話で、アフリカで暮らしていた主人公の祖先、そこから物語が始まる。そこでの人間関係や生活があって、そこで突然奴隷商人にアメリカに連れていかれる。その後、その息子は、娘は、孫はどう生きたか、アフリカ系アメリカ人の家の歴史をたどっていく話です。1960年代に公民権運動があって、それでできた「黒人差別はだめだ」という建前を心にまで着地させていく上で、このドラマはアメリカの白人たちにとって非常に重要な意味を持ったと思います。また、ドイツでは1980年代にアメリカの「ホロコースト」というドラマが放送されて、大反響を呼びました。戦後ドイツは、何回か段階を踏みながら少しずつナチスの時代の問題を直視するようになっていったのですが、80年代に放送されたこの番組がその下地を作りました。人々の心を揺さぶるような物語が問題に目を向けさせてきたというパターンが実際こうやってあるんですよね。
「感じる」っていうのは、人間的な価値の問題として考えるために、また、人間的な共感を育てるためにも必要だと思います。理屈では分かっていても実感では分からないっていうことが起きる。子どもの作文の話で触れましたが「こいつら人間じゃないから殺してもいい」と思ってるわけですよね。理屈では朝鮮人も人間だということは知っているけど、感性としては思ってなかった。感性としてそう思うこと、それが人間を支配と被支配に分けようとする力に抵抗する力になると思います。「感じる」ということは「共感への回路」ですよね。奴隷制や植民地、レイシズムといったものを維持したい人たちは、そこからつぶす。慰安婦の証言なんか全部嘘っぱちだとか。その目的は、正確な歴史を知りたいといったまともなことではなく、人々の共感のパイプをふさぐことにあります。だから、それに抗して、共感のパイプをつまらせない、何度でも開通させる努力が必要になるのだと思います。

    

―あとがきに「煮詰まったときにいつも新鮮なヒントをくれた妻」とありますが、それに関してエピソードがあれば。

    

そんなこと聞かれたの初めてですよ(笑)。ちょっと困りましたね(笑)。 …そうですね。家でブログを書いていて、こういう風に書こうと思ってる、という話はまず彼女にするわけです。僕は頭でっかちになってるときがあって。でも彼女の視点、焦点は違っていて、「あ、そうか」と思うような指摘を受けることがあるんです。あるいは、僕が「ここはこだわらなきゃいけない」と思ってるものについて「そんなものはどうでもいいことだ」と言ってくれて、「あ、そうだな」と思ったり。そういう意味で頼りにしていました。

    

―ありがとうございました。



加藤 直樹
1967年東京生まれ。出版社勤務を経てフリーランスに。近現代史上の人物論を中心に「社会新報」他の媒体に執筆。「九月、東京の路上で」が初の著書。